村八分堂書店

自分の本屋が持てないならネットで持てばいいじゃん。

自立≠1人で出来る?ー《生きる技法》安冨歩『みんなが欲しかったケイザイの本』

 

本日のお取り扱い

《生きる技法》安冨歩

 

 

生きる技法

生きる技法

  • 作者:安冨 歩
  • 発売日: 2011/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

ズバリどんな本?

・『みんなが欲しかったケイザイの本』

 


経済学書を読む目的は、

 

ズバリ、お金持ちになりたいから!

 

 

それは今あるおサイフのイン&アウトを経済学的に効率よくすることで成し遂げられるじゃなかろうか?

 

 

 

おサイフの中身は、どう使うのが一番いいんだろう?

 


だけど巷の経済学書は難しい数式と不可解な原理原則ばかりが書かれていて、おサイフのことなんてこれっぽっちも分からない。

 


第一おサイフにはお金しか入ってないという建前で書かれているし。

 


体力、気力、コミュ力。交換、譲渡、受取可能なもの、それら全てが入っているのが私たちのおサイフ。

 


巷の経済学=スマイルゼロ円。そんなわけあるか。

 


私たちは汗水垂らしてお金をやりくりしてるんです!

生命そのものと言えるエネルギーを毎日絞りだして労働してるんです!

 


『そのおサイフのやりくり=経済が、金で全部片付けられてたまるか!』

 


そう思ってるそこのあなた!ぜひこの本をお読み下さい!

 

この本には、そんな経済のことが書かれています!

 

 

 

 

 

ズバリ魅力は?

・『簡単な発想の転換から次々と常識が打ち破られる、まるで美しいパスサッカー!』

 

 

 

この本は東大教授の経済学者が書いた経済学の本。それも経済という大きな現象を前に、私たちが具体的にどういう構えで臨めばいいのか、その構えからどんな経済が生まれるのか、それが書かれた貴重な実践指南書。

 


ヤストミアユミ?トウダイキョウジュ?

なんだか小難しいことが書いてありそうな本だな?

 


そんなことありません。

この本は、小難しいことを言って読者を煙に巻く、そんな本ではありません。

 


もっとシンプルに本当に納得出来る知識から始めて、そこから『なるほど』と膝を打つような結論にたどり着く。

 


この本は、そんな知の醍醐味で書かれた本

 

 

 

知識というボールをちゃんと受け取り、当然導き出される発想に繋げるだけで、こんなにも常識は変わるのか!

 

そんな体験が味わえる!

 

 


『自立とは、多くの人に依存することである』

 


それこの本のスタートライン。

これだけでも『確かに』と思うようなフレーズ。ですが、この本はそこで止まらない。

 


このちょっとした発想の転換から、膝を打つような『なるほど!』が次々と生まれて、次々に別の『なるほど!』につながっていきます。

 

『依存する相手が減るとき、人はより従属する』

 

『誰とでも仲良くしようとすると、誰とも仲良く出来ない』

 

『自由とは選択の自由ではない』

 

『幸福とは、手に入れるものではなく、感じるものである』

 

 

ですが言われてみればどれもこれもどこかで聞いたことがあるようなフレーズな気がしないでもない。

 

しかしこの本の著者、

安冨歩《ヤストミ アユミ》さんは、

これらのフレーズをご本人が

『生きるための根本原理』

と名付けたたった一つの導入、

 

『自立とは多くの人に依存することである』

 

という原理から、真っ当に思考し、一つの流れ、しかも経済とは何か?に答えるような道筋で、上記のフレーズを導き出します。

 

この流れ自体をヤストミモデルと名付けるとしましょう。

 

このヤストミモデルの中に位置付けられた時、上の陳腐ともいえるフレーズ達は『なるほど!』と膝を打つ、磨き抜かれた真実になります。

 

その論理展開はまるで美しいパスサッカー

 

厚さでいうと2センチにも満たないようなこの本の中に、ドラマチックな《知》の展開が詰まっています!


ズバリどう思った?

『友だち作りたい』

 

この本の中で最も推奨されていること

それは友だちを作ること

 

そこから全ての繋がり=経済が始まります。

 

ですが、誰とでも仲良くすることによって出来る友だちは友だちじゃないとも明言されます。

 

『友達とは、互いに人間として尊重しあう関係にある人のことである』

 

『互いに人間として尊重しあう、とは、お互いの真の姿を常に探求し、勝手な像を押し付けない、ということである』

 

つまりどんなに関わり合いを持って、相手に対する知識が増えたとしても、まだ未知なのが友達。

 

友達に対する学習を、どこまでも終わりせずに、どこまでも続けあうのが友達。

 

そんな人間関係って魅力的じゃありませんか?

そんな友だちに出会ってみたいと思いませんか?

 

本日の名シーン

『友達だと思っていても、それは相互に利益を与えあっているだけ』

 

 

改めてこの本を見返した時、ここで『えっ』と思いました。

 

『相互に利益を与えあう』って、もしも経済で成り立っていたとしたらとてもステキなことじゃありませんか?というかそれ以上魅力的な経済がありますか?

 

だって世の中の経済学者は、みんなこれが《均衡》というカタチで成り立つことを目指しているんでしょ?

 

そんな最高の経済を『だけ』って言って切って捨てる安冨歩の経済観は一体どんなものなんでしょう?

 

この本を学んだだけでもその片鱗らしいものをなんとなく掴んだ気にはなれますが、それが腑に落ちるには、この本を読んだ後も習い続ければなりません。

 

『学びて時にこれを習う、また、たのしからずや』

 

学んだことが、ある時ビビっときて腑に落ちる。

 

それが学習のよろこびなのかもしれません。

 

 

学習に幸あれ(╹◡╹)/

 

 

10文読書感想文-『西洋哲学史』プラトンの項を読んで

知識がどこから湧き出るのか、プラトンの説の方がアリストテレスの説よりも納得出来るものだった。

 

アリストテレスは現にある可能性をしつくすことによって全ての知識は満たされるといったことを主張しているが、それではビッグデータの解析によって、『データの可能性をしつくす』という人工知能以外の知性観が見えづらかなってしまう。

 

プラトンのような知性観、つまりイデアという、未知ではあるが確かにあるものへの確信に誘われることが知識を生むという知性観の方が、人間らしい知性観を反映している。

 

特に、未知のものへ誘われる人間のさがをエロス的だと書いていることが興味深かった。

 

それは未知のものへ誘われる力を合理性に置かず、非合理に置いているということだ。

 

人間は未知のものを、合理的であるが故に求めるというのではなく、その不合理故に求める。

 

『知は無知の知ゆえにはじまり、無知の知に奉仕する』とまとめてみた。

 

我々が経験できる世界は完成せず、誠実な魂が求める欲求も不合理だが、知ることで生きる意味は解き明かせず、むしろ未だ知らないことに誘惑されていることこそ生きようと思える。

 

知らないこと、経験したことないことに誘惑され続ける人間でいたい。

 

鬼作家は美少年にトキメキたい!ー《ヴェニスに死す》『老作家が美少年に恋して破滅する話』

 

 

今回のお取り扱い

 

ヴェニスに死す》 作 トーマス・マン 訳 実吉捷郎 

 

 

                       

 

ズバリどんな本?

『老作家が美少年に恋して破滅する話』

 

キレイ美しいは似て非なるもの

 

キレイとは

整然としていること、節度があること、礼儀正しいこと、均整があること

 

美しいとは

眩いこと、歓びに満ちていること、輝いていること、ときめかせること

 

厳かなまでにキレイでいたい

だけど、私はときめいてしまった

 

 

 

どもども、架空仮想書店村八分堂書店』の見習いバイト

読ムマジロです(๑╹ω╹๑ )

 

さて、今回のお取り扱い扱い

 

ヴェニスに死す》 作 トーマス・マン 訳 実吉捷郎 

 

でございます。

 

主人公は名声を欲しいままにする老作家《アッシェンバッハ》

名声がすごすぎて爵位までもらっています。

 

彼の芸術のモットーは

『こらえとおせ』

 

 敬うべきへの跪拝によって作られる彼の小説は、

厳粛なまでにストイック

 

整然とし、節度があり、均整がある

 

先のキレイに属する要素を、厳かさに化けるまで貫き通した作風

 

 

そのような態度によってこそ初めて小説に

安っぽくない真正のヒューマニズムが宿る

という創作哲学をもっています

 

そんな彼がふとしたきっかけでヴェニス(水の都ヴェネチア)に

慰安旅行に訪れます

 

だがそこで出会ってしまう

絶世の美少年《タッジオ》

 

老作家の哲学は

たちまちその美しさにほだされてしまいます

 

「私の厳粛さは、彼のような圧倒的な美を捉えられていなかった!」

 

挙げ句の果てにはこの老作家、美少年タッジオの恋の虜になってしまいます。

 

「なんとか私の厳粛さと彼の美しさを繋げることは出来ないか」

 

「彼の美しさのためなら、破滅したって構わない」

 

 

 

 

 

 

 

ズバリ魅力は?

 

『ストイックに絞った彫刻のような文体』

 

男の老人が美少年に恋をする。

こんなキワドイ小説が古典と言われる文学作品にあるんですね。

 

さて、そんな作品を書いたトーマス・マンが書く文章は、

主人公の老作家のようにストイックです。

 

華美な装飾をほとんどせず、簡潔で力強い整然とした均整で勝負する。

 

その張り詰めた緊張感は、まるで完全な肉体をもつ彫刻のよう。

 

 

きらびやかでまばゆいアイドルのコンサートよりも、

荘厳で厳粛な神事をみてみたい!

 

そんな方におすすめです!

 

 

 

ズバリ読んだ感想は?

『やっぱり、美しいとキレイは別だ。』 

 

そんなこんなで始まった老作家の恋物語は、

 

『老作家が自分の創作哲学に殉じることによって少年の美を捉えた』

とも

 

『やはり老作家では少年の美を捉えることは出来なかった』

とも。

 

両方とも取れるんじゃないか?

 

というような終わり方で幕を閉じます。

 

ここで、

キレイ美しい

マジメフマジメ

という言葉に置き換えてみましょう。

 

キレイはどこまでいってもマジメ

整頓されて節度がある。

 

老作家=キレイは、やっぱりどこまでもマジメなんです。

 

そしてそのマジメさで美しいタッジオを捉えようとします。

 

感覚的で肉体的な美しさ

それは時々フマジメと思える瞬間もある

 

そんなタッジオを捉えようとした老作家は

マジメを貫いてフマジメになろうとしました

 

でもよくある話ですけど、

マジメな奴が計算してやるフマジメなんて

 

イタイタしくてお門違いなことが多いです。

 

威厳にあふれていた老作家は、

タッジオのストーカーにまで成り下がってしまいます。

 

意中のタッジオに思いは通じたか?

それは最後まで判別しかねましたが、

 

『タッジオこそ全て!そのためなら破滅しても構わない!』

という老作家の態度は、

ひょっとしたら危険なものかもしれません。

 

だって

タッジオこそ全て

と思っている老作家の思いは

超個人的なものにならざるを得ないんですもの

 

『タッジオ』の部分を『理想』に変えて、

破滅しても』の部分を『何をしても』に変えてみると

 

『理想こそ全て!そのためなら、何をしても構わない』

という恐ろしい文言が出来上がってしまいます。

 

もちろん、

『理想=不可能』を承知で、

不可能に邁進する姿は

誰かを勇気付けたり、生きる原動力になったりするから

否定すべきではありません。

 

でもその時の動機が純粋なものなのか、それとも不純なものなのか、

 

外からはジャッジしようがありません

 

理想を追い求める老作家のマジメさは、

時として恐ろしいものに変わってしまうかもです。

 

やっぱり

マジメフマジメ

キレイ美しいは、

きっぱり別物だと考えておきたい読ムマジロです(๑╹ω╹๑ )

 

今回の名シーン

『老作家が見知らぬ男とたまたま目があって、ヴェニス行きを思い立つシーン』

 

いやあ、なんかちょっと批判がましいことを書いてしまったかもしれませんが、

 

この作品の整然とした均整は本当に味わい深い素晴らしいものです。

 

まるで陶芸品の深みのある色合いをみているようでした。

本当にもうずっとみてられる。

 

さて、今回の名シーンは、

一見するとそんな『ヴェニスに死す』には

ふさわしくないシーンに見えるかもしれません

 

『知らんおっさんと目があって旅行を思い立つなんて、急展開すぎるだろ!』

 

って思っちゃう人もいると思います。

 

ですが僕は前後含めたこのシーンに

計算され尽くした運命が描写されていると思いました。

シーンの説明に移ります。

 

 

作品制作で集中力を研ぎ澄ましきった老作家は、

ふと目に入った街中の文字によって、気が散じて、安逸を覚えました。

 

ですがいつだって安逸こそ悲劇のきっかけ

次の瞬間、たまたま目があった見知らぬ男に、

これまで作品製作を通して世界の全てを見通そうとしていた作家が、

 

見られる

 

という体験をします。

 

誰かの眼差しに気づくということは、私の中にいるあなたに気がつくということ。

 

そしてその私の中のあなたは、私を未知の可能性へと引きずりこみます。

 

たとえそれが、身の破滅をもたらしたとしても・・・・・

 

動き出した運命の歯車

老人はどんな破滅を迎えるのでしょうか・・・・

 

 

破滅に幸あれ(๑╹ω╹๑ )/

 

 

 

 

恋ってアソビだからマゴコロー《夏の夜の夢》恋心が妖精に遊ばれる話

 

 

今回のお取り扱い

《夏の夜の夢》,ナツノヨルノユメ

ウィリアム・シェイクスピア 訳 福田恆存

 

ズバリどんな話?

『恋心が妖精に遊ばれる話』

 

扱いづらい恋心

 

誰に恋するか

分からない、

 

誰に恋されるか

分からない、

 

恋なんて

ただのうつろいやすい遊び心

しかも痛手になりやすい

 

誰もが知ってる恋の味

 

そんなありきたりな恋の味を

天才ウィリアム・シェイクスピア

さっと味変!

 

面白恋劇が出来上がっちゃいました!

 

 

どもども、

架空仮想書店村八分堂書店』 の期間バイト、

読ムマジロです(๑╹ω╹๑ )

 

いやー、

いきなりおセンチな文章から始まっちゃいました、

《今回のお取り扱い》٩( ᐛ )و

 

一応言っときますけど、これでも短くしたんですよ( ✌︎'ω')✌︎

僕、最初はもっとおセンチな文章書いてました

ウ、イ.イタイ_:(´ཀ`」 ∠):

 

さて、閑話休題(๑╹ω╹๑ )

 

今回お取り扱いする本は

本の題名よりも作者が有名かもしれません。

 

作者の名前は

William・Shakespeare

 

イタリックのアルファベットならなんでもカッコいいと思ってるお年頃です٩( ᐛ )و

 

でも、それにしてもなんて読むんだろう?

え、えーと、ういりあむしいえいくす、ウィリアム・シェイクスピア

 

シェイクスピアって超有名じゃん!

リア王》《オセロ》《ハムレット》《マクベス

あ、あと《ロミオとジュリエット》も!

 

限界集落村八分にあってネット上に追いやられらたこんな本屋にも、

お取り扱いがあるなんて、、、

い、いくらなんでも偉大すぎる・・・・

 

さて、閑話休題(๑╹ω╹๑ )

 

この本は一体どんな本か?

一言でいうと

 

『恋心が妖精に遊ばれる話』

 

いやー、それはそれは複雑な四角関係の男2女2がいたんですよー

 

曰く、王に認められ、キングパワーで結婚を迫る《デメトリアス

 

曰く、デメトリアスから迫られているけど、本当は別の人が好き《ハーミア》

 

曰く、両思いのハーミアと、こっそり駆け落ちしちゃおう《ライサンダー

 

曰く、デメトリアスに捨てられちゃったけど、まだ彼のことを愛してる《ヘレナ》

 

この三人の恋模様が描かれるんですけど、このテラスハウスには人間じゃない生命も住んでいます。

 

それは妖精

 

森にすむいたずら大好き妖精が、

若い男女のうつろいやすい恋心を利用して

恋の魔法をかけちゃいます。

 

「こっちの人を好きにな〜れ♡」

「あっちの人を好きにな〜れ♡」

 

目まぐるしく変わる男女四人の恋模様

はてさて本当の恋はどこにあるのか

 

全ては夏の夜の出来事だった・・・・・

 

 

 

ズバリ魅力は?

『手際良すぎ!シェイクスピアの劇作クッキング』

 

 

「まあ、作品紹介こそしたけどさ、」

「そりゃシェイクスピアが昔の偉い作家さんだってことは知ってるよ。」

「でも現代となっては正直ありきたりな物語にすぎないでしょ?」

「いや、これを王道にしたのがシェイクスピアなのかもしれないけどさあ」

「俺たちもうありきたりな話には飽きちゃってるんだよね」

 

ホールからはこのレストランに訪れた客たちの本音が聞こえてくる。

 

アイス、ガム、チョコレート、

ハンバーグにはチーズまで入ってるこの飽食の時代

 

シェイクスピアなんて昔の人が出てきて、俺たちに新しい味を教えられるのかい?」

 

そう、この時彼らは何も知らなかった。

 

現在使われてる英語を確立したのは誰か。

知らず知らずに使うあのフレーズの生みの親は誰か。

 

とあるドイツ文学の巨人はある人物を指して言った

《ほどほどに読んでおかないと、自分の才能の背丈に失望してしまう》

 

とあるSFの巨匠はある人物の作品について語った

《数十年先の未来まで書く小説がある現代に、数百年前から読み継がれている》

 

その人物は誰か

そう、彼こそがシェイクスピアだ。

 

厨房に入ったシェイクスピアは早速料理に取り掛かる。

それを見て驚きの声をあげる料理人たち

 

「なんと緻密なストーリーの構成!まるで大料亭の懐石料理のようだ!」

「なんて数のキャラを書き分けるんだ!取り扱う材料が中華どころの騒ぎじゃない!」

「展開が一切ダレない!給仕まで完璧かよ!このフレンチフルコース!」

 

「ストーリーの素材自体はいたってシンプル。」

「要は新しく妖精が入居してきたテラスハウスだ。」

 

「「「「にも関わらずなんだこの劇作力は!」」」」

 

《今回のお取り扱い》の魅力をズバリ

 

はい、物語の語り口が美味すぎるんです。

 

物語って、

昔聞いたおとぎ話にしても、

厨二の頃に書いた痛い小説にしても、

 

なんの物語を語るかも大切だけど、

どのように物語を語るかも大切なんです。

 

稲川淳二の怖い話だってそうでしょ?

 

どんな面白い物語を頭の中にイメージしても

 

それにちゃんとした

 

・構成

・描写

・叙述

 

をつけて、

その上具体的な文章にして

紙に落とし込まなければいけない。

 

どのように物語を語るのかは

なんの物語を語るよりも

ひょっとしたら重要なのかもしれません。

 

しかもシェイクスピア小説じゃなくて戯曲

まあ、劇作のことなんですけど、

つまりほぼ全ての展開をセリフのみで書かなければなりません。

 

セリフだけで子供に『桃太郎』を楽しんでもらうなんて難しい注文でしょ?

でもシェイクスピアはそのオーダーにこたえることができちゃうんです。

 

 

 

 

ズバリ読んでどう思った?

『恋心って遊び心であるうちの方が真心なのかもしれないな』

 

散々シェイクスピアの劇作力の高さに注目してきたわけですが、

僕がこの作品から感じとったメッセージはこれです。

 

先の男女四人は、好きよ嫌いよをあれこれやって、

まるで夏の夜の夢から覚めたようにモトのさやに収まって、

 

新婚の王様と一緒に

合計三組の婚礼の宴を開くんですが、

 

読者である僕は

「なんだ、恋なんて所詮うつろいやすい遊び心に過ぎないのか」

と思いながら、

 

 

彼らとともにクソ下手な劇中劇を眺めます。

 

ありきたりな恋の劇、

役者も演出もヘッタクソすぎて見てられない。

 

でもそんな劇を見ながら僕はふと思うのです。

「ああ、恋って外から見たら下らないからこそ尊いのかもしれないな」

と。

 

例えば愛と比べましょう。

 

愛に比べて恋には責任がありません

いっときの感情に流されてもいるし、

家事や育児をどっちがやるかの話し合いもないでしょう。

 

《恋は盲目(Love is blind)》とはよくいった言葉ですが、

 

それは他のものが見えなくなるほど

夢中になって遊んでいるということかもしれません。

 

児戯こそ聖なる誕生。

 

子供の遊びは

見ているこっちが老いていくほど

 

生まれたての喜びが次々と湧いてきます

 

そして子供達は遊びに誠実

 

大人の仕事よりも、

子供の遊びの方がずっと真心がある

 

そういう点で見れば、

マジメな愛よりアソビの愛の方が優れているかもしれませんね。

 

だって、出会っていきなり愛を誓われるよりも、

まずは恋で遊ばせてくれるひとの方がずっと心がこもってるでしょ?

 

シェイクスピアが何を言いたかったのかは

わかりませんが

 

僕は愛に対して恋の優越が歌われているように感じました。

 

 

さて、閑話休題(๑╹ω╹๑ )

 

今回の名シーン

『へったクソな面白い劇だったなあ、皆の衆!さて、では各カップルこれからベットに移動して、この後めちゃくちゃセッ◯スしよう! 』

(のシーン)

 

突然の下ネタ誠にすいませんm(_ _)m

 

例の劇中劇を見終わった後の

王様のセリフですね。

この王様も新婚です。

 

いや、正確には言ってねーけど、

これと似たよーな雰囲気の会話が出てきます。

(訳の雰囲気もあるかもしれませんね)

さあ、恋人たち、新床が待っているーーーそろそろ妖精どものさまよい歩くころおい・・・このぶんでは、あすの朝、寝すごしそうだ、だいぶ夜ふかしをしたからな。なんともたわいのない芝居ではあったが、遅い夜の歩みをまぎらわしてくれた・・・さあ、みんな、おひらきとしよう

 

この後、新婚サン達は手を携えて退場。

夏の夜の夢から覚めて、熱い熱い熱帯夜へ。

 

 

いやー、『新床が待ってる』なんて威風堂々とした王様ですね。

 

『だいぶ夜更かしをしたから』『あすの朝、寝過ごしそうだ』

だなんてホントかな?ウフフ

 

んでもって妖精の語りをはさんで終劇。

 

というわけでこの記事もおひらきとしましょう!

 

恋に幸あれ!